「40代からの海外駐在体験~中国編~」技術部兼国際部 長野昌利

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No.656 2018年3月

今回の海外駐在記は、当工業会、技術部兼国際部の長野昌利氏の駐在体験を掲載します。中国とマレーシアでの駐在記を二号に亘り綴っていきます。まずは中国での駐在体験についてをご覧ください。


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私は家電会社を経験し、現在当工業会で仕事をしています。これまで2002年から2009年までの約7年、海外駐在しましたが日本とは全く異なる仕事・生活環境を通し、得難い経験をしました。つれづれに書き出しましたので参考にしていただければと思います。

 入社後40歳までエアコンの開発畑を歩み、先輩から「会社人生の前半は勉強、いろんなことを学べ、会社に貢献するなんて考えなくていい。その代り、後半はひたすら会社に返す仕事をしろ」と教えられました。品質を担当していた43歳の頃、中国の工場責任者を拝命しました。若い時から外国語は苦でなく、将来は海外でと思っていたため、会社に貢献できるぞと意気込んで日本を出ました。


【中国駐在地】
 中国の華南に位置する広東省広州市番禺区。広州市は中国国内で北京、上海に次ぐ大都市で、広東省の省都です。人口1270万人、人口密度は約1710人/km2。東京の人口密度が6015人/km2ですので、割とゆったりした印象の都市です。気候は春が3~4月、夏5~10月、秋1112月、冬1~2月で、夏は湿度が高く、冷房専用エアコンが売れる地域でした。暖房はごく短い期間のみです。観光は「羊城八景」で知られている名所があります。白雲山、珠江夜景、広州市東駅広場水系瀑布、越秀公園、陳家祠、広東オリンピック体育センター、七十二烈士墓、番禺蓮花山など。工場のある広州市番禺区は香港の珠江口(川の河口)から約100kmの場所で、香港とマカオと広州市中心部とで作られる三角形のほぼ中心に位置します。(写真1)

写真1:番禺区の旧正月の様子

【工場について】
 この工場は1995年に操業し、8年間は中国市場向けを中心に経営をしていましたが、当時はまだ日本ブランドは定着せず、高い価格もあって経営は苦しい状況でした。日本の親元は元々中国市場専用工場だったこともあり、関心は希薄でした。従業員は社員、期間工含め最盛期2000人、日本人出向者は私を含め4人のみ、なんとも心もとない印象でした。(写真2)

写真2:工場外観

【会話問題】
 最初の頃、一番困ったのは会話でした。というと中国語だと思うでしょうが、そうではなく、部下との直接的な会話がないことでした。その理由は日本語堪能な専属秘書が部下との会話の一から十まで通訳していたことです。いつのまにか部下の顔は全く見ず、秘書と激論を交わしている始末で、なんともおかしな風景でした。中国語も不自由なのは事実でしたが、着任後、数か月が過ぎ5W1Hの中国語ぐらいを覚えた頃、思い切って秘書を追い出し、部下と身振り手振りを交え5W1Hの単語レベルで会話を始めましたが、書類が漢字でしたので(思いのほか)理解でき、その一方、部下からは中国語を教えて貰いました。気持ちを通わすことを大事にした結果、この後の中国語習得で苦労することはなく、会話は問題なくできるようになりました。私が何を言っているか、部下が一所懸命考えたからであって、私の中国語が上手だった訳ではなかったと思います。

【駐在業務】
 仕事は、エアコン工場の責任者でした。着任初日、前工場責任者から「今日から君が工場長、引き継ぐことは何もない。書類も何も渡さない、好きにやってくれ」と言って二週間後にその方は帰任しました。後から思うと、赤字で苦しみ続けてきた工場に新鮮な気持ちでやって来た私に、とくとくと引き継ぎしてもしょうがない、新しい発想で自由にやらせた方が良い、という親心だったようです。会社生活で後にも先にもこんな引き継ぎはありませんでしたが、今では思い出に残る一コマです。それからの仕事は、簡単なものではなく、開発と品質の経験しかなかった私には辛いものでした。技術出身でしたので、何か課題にぶち当たると「真実は一つ、選択肢はその真実を把握した上で判断すべきだ」という考えが染み付いていましたので、工場責任者になってからも部下に様々な質問、説明、補足させる資料を求め、その結果、多くの時間を割くものの結論が出ない状態となっていました。ある時、日本から出張で来ていた現場の人から「話があります」と切り出されました。振り返ると、この時のこの人の言葉が一生の金言となりました。

 以下のようなやり取りでした。

「いろいろな案件が控えている中で、工場長はどう判断しようと考えていますか?」

「部下が持ってきた情報を理解した上で判断しようとしている。判断に至れないのは部下が持ってくる情報が足らないからだ。俺は悪くないと思っている。」

「工場は開発と違って工場長の判断が右なら右、左なら左に向かいます。工場長の自己満足のために費やす時間こそ無駄です。」

「その判断が間違ってたらどうする?」

「簡単です。反対方向に向かえばいいんです。右か左かじゃないんです、正しいとか間違いじゃないんです。どっちに向かうかの選択なんです。工場では責任者が意思を持って判断することが大事です。結果が出なかったら元に戻ってやり直していいんです。」

といった内容でした。

 私は思いました「大事なことは責任者自ら、よくよく考えどの方向に向かうのか、意思を持って選んだらいいんだな、それでいいんだ。」。以降、工場に限らずいろいろな場面で、この時のことを思い出しては、意思を持った判断を心がけました。難しい案件の会議があるときは必ず「俺はどうしたい?」と自分に問いながら話を聞きました。今でも工場に限らず全責任者が心掛けるべき考え方だと思っています。
 そんなこんなで着任から4年半が過ぎ、この間、日本向け生産を本格的に始めたことで、経営が立ち直り始めましたが、品質問題などでは注目されやすくなり、日本からよく叱られました。
 生産台数拡大と共に第2工場も建設し、生産能力は300万台を超える規模となっていました。従業員は社員、期間工を含め最盛期4000人を超えました。当時、中国メーカを除くと世界で最も規模の大きいエアコン生産工場になっていました。中国ではもっぱら仕事中心で思いっきり頑張ったこの4年半は、私にとって会社生活で最も辛かった時期でしたが、過ぎてみるとかけがえのない思い出となっています。

写真3:中国工場の元部下たちとの懇親会(右から3番目が筆者)

【現地の人々】
 当時一緒に働いた中国人部下は、今では会社を辞め、独立して会社経営をしている人が多くいます。中国社会は、日本と異なり定年後の年金なんてありませんから老後の自分と家族の生活費を稼ぐ必要に迫られます。40歳を過ぎるあたりから独立を考える人が多いのはこんな事情からです。中国人は拝金主義と言いますが、実はこのあたりの事情を知ると彼らに対する見方が変わります。共産主義とは実は名ばかりで、実際は日本以上に資本主義的な側面を持つお国柄です。中華主義で自分たちが世界の中心という考え方は脈々と流れています。だからプライドが高い、人前で恥をかくことを最も嫌う、でも心情を共にできる人柄とわかったら、とことん付き合い、尽くしてくれます。彼らの懐に飛び込んで、信頼関係を築き上げることができれば、これほど力強い味方はいません。工場を離れた後も、時々出張で出向いた時は、昔の部下が自然と集まり、よく話をしたものです。(写真3、4)

写真4:蓮花山ゴルフクラブでのホールインワン記念写真



 いかかでしたでしょか。長野氏と部下のやり取りが目の前に浮かぶようですね。
 こちらで海外駐在記の中国編とし、マレーシア編は引き続き次号No.657)に掲載します。