あせらず あわてず あきらめず
「私の海外駐在記~中国・広州市~ 前編」 国際部 大井手正彦

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No.669 2020年5月

今回の海外駐在記は、当工業会 国際部 大井手参事の中国駐在体験(前編)をお届けします。2号にわたり掲載いたします。後編はこちら


過去記事はこちらから

ドイツ駐在記(パナソニック 小林様)
インド駐在記(日冷工 波多野)
インドネシア駐在記(パナソニック 菅沼様)
ブラジル駐在記 (日立JC 佐々木様)
台湾駐在記(荏原冷熱 勇様)
中国マレーシア駐在記(日冷工 長野)
ロンドン駐在記(日冷工 笠原)
ノルウェー駐在記(日冷工 坪田)


1.50代、会社生活終盤での中国転勤の内示うけ
春の雨の日、国内外合わせて4回目の単身赴任内示を受けたのは、2006年。すでにもう14年前のことです。亡父の七回忌で実家に帰省、現住所に戻る車中での年度末でした。それまでの私の業務は、冷凍機・空調機用圧縮機の開発・設計に24年間従事、レシプロから始まって、回転式(ロータリー、スクロール、スクリュー)に渡る圧縮機の仕様変化を目の当たりにしつつ、世紀が変わるとともに職種変換で営業(圧縮機)に携わることになって6年目でした。おわかりのように、これまでの本海外赴任記の方々のように若い時ではなく、50代での会社生活の終盤にかかってのことでした。




写真1:工場全景(ホームページより)。
工場の奥は、東江を挟んで東莞市を望んでいる




赴任先は、中華人民共和国広東省省都の広州市東端の開発区(いわゆる工業団地)にある圧縮機生産工場で、営業統括として毎日市内中心部のアパートから片道1時間かけて通勤しておりました。一応、通勤は同宿の駐在員とともにハイエースのような6-7人乗りのバンで出退勤(勤務していた会社はアジア地区では運転禁止でしたので当然ドライバーさん付き、とても中国で運転する気にはなれませんでしたが)。このバンは、中国語では「面包車」(=食パン車)と形状から呼称しています。

赴任期間は、私は長くいることは厭わなかったのですが、販売もうまくいかずリーマンショックもありで3年目の春に帰国命令が出てしまいました。そんななかで短いながら感じた中国の当時の様子を思い出しながら書いていきます。もうすでに14年前、10年ひと昔どころか3年ひと昔の中国ですので大分古い記憶になりますし、業務内容の細かい点は忘却の彼方で生活雑記となりますがご辛抱ください。



2.地理的位置
広州市は、北緯23度7分、東経113度13分で時差は中国全土-1時間(日本時間に対し)です。お気づきになったかも知れませんが、北回帰線の緯度が北緯23度26分なので亜熱帯と熱帯の境目の熱帯側に位置しています。また、夏至の日の正午には太陽は真上に来るので影が全く無くなります。私も2年目の2007年夏至に工場でそれを実感しました。

広東省の旧国名は「粤(yue:中国語)」で『越』とほぼ同じ意味。中原に首都があった古代中国から見たら遠いところの意味があるようです。漢の時代には、広州市に南越国(広東省、湖南省、福建省、雲南省、江西省、ベトナム北部も含む)首都があり、当時の文物を収めた「南越王博物館(王墓発掘跡に開設)」も市内にあります。ちなみに、ベトナムの中国語訳は「越南(yuenan)」と表記しますのでその感じが理解できるかと思います。なお、自動車のナンバーも広東省登録車は「粤」が最初の記号になります。

人口は 当時900万人程度とのことでしたがこれは広州都市戸籍所有者のみの話で、農民戸籍で広州に働きに来ている人を含めると1200-1300万人とのこと。最初はやはり人の多さに驚きましたがそのうち慣れてきてそんなものと思う様になりました。

気候は、亜熱帯/熱帯気候なので、高温多湿で街路樹が多く歩道に覆いかぶさるところもあったので日差しから少しはしのげましたが、晴雨兼用日傘(男性でも使います。裏が銀色で熱反射していたかも)も必需品、すぐに入手しました。とはいえ、当時は夏に40度になることはなく(四川省重慶市、湖北省武漢市、江蘇省南京市のような40℃以上になる「三大かまど」ではありませんでした。)、35-6度程度、ただ夕立は激しい雷雨となり街に出ていると身動き取れなくなるほど、夕方広州空港に帰ってくる出張の際に雷のためしばらく空中待機で悩まされたことも数知れずでした。

冬もコート要らずで(ただし冬季の中国各地出張ではコートは必須でしたが)、旧正月ころが一番冷え込んでいました。


3.日本人出向者はわずか5名
差し支えない範囲で工場のことなど、まずは仕事の話を少し。
工場は、1996年に中国企業と合弁で設立。その後、中国政府方針で独資が認められたのでその後独資企業となっています。当時、日系の圧縮機企業として独資は同じ市内の番禺区にある企業と2社のみで、他は多かれ少なかれ現地企業との合弁でした。従い、合弁企業の営業は中国人がマネージャーを務めており独自の方向性を出していました。勤務していた工場は、当時、大体2500-3000人在籍で、繁忙期は季節ワーカーを雇い入れて5000人規模の人海戦術。そこに、当時は日本人出向(駐在)者は私を含めて5名で、日本の営業や工場エンジニアの協力を得て業務遂行していました。

広州市には、日系の自動車製造および内装、外装部品メーカーさんも多く進出しており(Toyota, Honda)、圧縮機製造に必要な材料、前加工のインフラがそろっていました。


写真2:工場事務所の前で。帰国直前お世話になった大手客先の
     資材、研究幹部と中国赴任先会社営業マネージャーとともに
                     (窓が青いのは、日差しが強いので遮光フィルムを張って             
        いるため。広州市内の事務所はほとんどフィルム付き)


3代目の工場トップのもと、3代目の営業統括として勤務。若干「3代目は何とやら・・・」で身上つぶさぬよう努めたつもりでしたが、営業成績はなかなか利益を生み出すには厳しく、2008年の国慶節休暇近辺のリーマンショックで底冷えとなった時代でした。


4.「あせらず、あわてず、あきらめず」の3つの『あ』
2代目の工場トップとは、入社当時からの上司で赴任時にはすでに交代していました。私が営業職種転換時代にこの工場に出張時に授けてくれた言葉は 「あせらず、あわてず、あきらめず」 の「3つの『あ』」でした。なかなかそうはいかないで3年が経ってしまいました。

先ほど述べたように、工場は広州市の東端、東莞市と境を接する「東江」と広州市内を流れる「珠江」に挟まれた開発区にあり、大卒者用の社員寮(個室)やワーカー社員寮(6人部屋など)はこの開発区内にありました。開発区には他企業もあり相当な人口でこじんまりとした都市の様相でした。

社員寮は、「衛生・安全」の意味で1か月に1度、マネージャークラスが交代で総務部員と一緒に観察に行きますが、大卒者用の社員寮はまあ日本の独身寮とほぼ同じで驚きませんが、季節ワーカー用社員寮は2段ベッドの6-8人部屋で寝起き、毎朝会社が用意した通勤バスに乗ってやってきます。観察時は、昼間なので誰もいませんが、身の回りのものも少なくやや殺風景でした。よく頑張って仕事してくれていると思った次第です。



写真3:工場近くの開発区内 大卒者用独身寮




食事は工場で朝昼晩と3食 食堂で供していました。一時期、民間企業に委託していましたが、そのうち会社の中に取り込んで質・品目向上しました。一体に中国の人は朝食も外食が多いので工場では朝は饅頭(マントウ)なども出しており、営業メンバーも朝買ってきて食べていました。まあ、3食食べても10元(150円相当)くらいですが量はたっぷりあるようで、日本人も昼食は食堂でとりますが、量が多すぎて完食すると肥満になるので減らしていました。


5.中国語の習得に悪戦苦闘
中国語の習得については、赴任前に、約1か月(1週間x4回)中国語速習を受けました。何とか4級レベル相当となり補習は無かったですが、いかんせん「四声」という中国語の音の高低イントネーションは慣れず、結局会話は不十分でした。広州に駐在後も、総務を通じて家庭教師を頼んでいましたが、総務課長曰く、日本語専攻の大学生の方とは意思は伝わり易いが、家庭教師側の日本語教育になるので避けるようにとの提案で、無理して英語専攻の方に来ていただいておりました。ちなみに総務課長は、日本語堪能で工場責任者の通訳もおやりなった方で、朝鮮族の出身。一体に朝鮮族の方は、小学、中学で日本語を学ぶということで営業にも、開業当初から通訳、秘書を経て営業として務めてくれていた女性マネージャーも朝鮮族の方でした。


6.スマホの普及で「低頭族」が増加
赴任当時(2006年)でも、中国での携帯電話の普及はすさまじく製造メーカーも、欧州、日本、中国、韓国メーカーが乱立、かなりの人が所有しており、街中では首を前に傾げた「低頭族」という言葉があるほどでした。先ほど申したように、電話にて中国語で意思疎通することは極めて困難でしたが、その代わりSMS(ショートメール)は重宝しました。中国語入力は「ピンイン」という発音をあらわすアルファベットにて入力可能なのでよく使う言葉の「ピンイン」の綴りを覚えておけばかなりの意思疎通はできました。ましてや、どの言語の携帯電話でも当たり前ですが、予測変換してくれるので、同音異義語の多い中国語では多くの候補漢字が出てくるのと、「シ」の発音でも「xi」、「shi」、「si(どちらといえばスの発音)」と適宜入力するとお目当ての漢字が出てくるので重宝しました。イントネーションの「四声」は身につかなかったのですが、平坦な発音やピンイン入力がかなりできるようになったことが収穫でした。


7.通訳を頼らず、中国語はなるべく自分で
仕事では、営業メンバーと細かい話をする場合は、通訳の方や、日本語専攻した営業マネージャーを介しての会話になるので、前線の担当とはやや無機質な会話になり迷惑をかけました。営業ですので前線担当からは営業日報を送ってきますのでそれを理解しようと考え、まず通訳に訳をお願いしましたが数十人の営業担当の日報を全部訳すことは土台無理で本人陰で泣いておりました。というわけで、自ら読むことにしました。大体が営業日報なので、「何々について」とか「理由としては(言い訳もありますが)」などの常套語句の構造判ると、あとは中国本土で使われる簡体字を日本語の漢字と対照して覚えると大体の意味が取れるようになり、「読み・書き」は幼児レベルには達したのではないかと思っています。(聞く・話すは全く身につかず)

今だと、「google翻訳」がありますが、当時はそのようなものがなく、娘の第2外国語で購入した中日辞典を携えて赴任しましたが、先ほどの家庭教師にご指導いただくとき以外はあまり使わない生徒でした。なお今でも、google翻訳で元文書からコピペで文字を張り付けられないときは培った「ピンイン」入力が今でも役立っており、中国語のプレゼン資料や技術規格の大まかは理解できるので役立ちました。

業務内容が営業ですので、中国各地に散在している空調機製造メーカーや圧縮機の引き合いで中国内のかなりの省に出張で行きました。営業出張なので、観光はできませんが都度都度その土地の風物に少し触れることができました。

まずは、ホームベースの広東省内には7~8社程度中国ローカルのエアコンメーカー、日系、欧米系のエアコン合弁会社があり、赴任後ビザの切り替え(短期ビザ→就業ビザ)でパスポートを一定期間(たしか1か月くらい)外人局に預けなければならないので、当初1か月くらいは広東省内の客先へ車で行ってご挨拶がメイン。就業ビザを得てからは、揚子江沿い(上海、南京、武漢、合肥)や青島、天津などの客先に飛行機で出張しました。航空券の半券が100枚以上あったかと思います。約3年間駐在中ほぼ5日に1回飛行機に乗っていた勘定で、中国南方航空のマイルはたまりました(JAL,ANAとはマイレージグループが違うので、無料航空券に切り替えていました。)。 


8.中国国内の移動でもパスポートが必要
また、中国国内の省間航空機移動でもパスポート(中国の方はIDカード)が必要でパスポートが無いと省外出張が出来なかったわけです。ご存知のように上海、青島、天津は広州と同じく租界があったところなのでところどころそのような跡がありましたが、地元広州以外は業務終了後の夕方や帰りの朝にちらっと見ただけで残念でした。

中国内に新幹線網がちょうどでき始めたころで上海⇔南京は結構中国新幹線を使いました。車両は、川崎重工ライセンスの「はやて」型でした。(ちなみに、広州東⇔香港間はジーメンスのライセンス)。それから一度、天津に行くときに霧で飛行機が北京に着陸せざるを得ず、特急電車で北京→天津と移動しましたが、車中で車掌さんがポットに入れたお湯を乗客の求めに応じてカップラーメンに注いでいたのが記憶に残っています。その後、列車には給湯器や給湯サービスがあるのが中国の常識と知った次第。



写真4:広州(赤枠)の位置と主な航空機出張先(青枠)

                     (画面をクリックすると、大きな画像が表示されます。)



9.中国エアコン生産の半分は欧州へ輸出
赴任時は、中国のエアコン生産台数が約5000万台、うち半分近く輸出(多くは欧州向け)。このころから、中国エアコンメーカーの工場ライン増設や工場そのものが、いわゆる沿岸部から内陸部に向かい、私の客先の多くの工場が揚子江上流の重慶の工業団地に新設されて、開業セレモニーに呼ばれて行きました。当時から、生産ラインが一本年産50万台前後の規模だったので、今やエアコン生産1億台超え、うち輸出も5000万台規模になったのも十分うなずけます。

営業活動は、冒頭申したようになかなか快調とはいかず、エアコン生産台数から行くと引き合いが多いはずですが、中国ローカルエアコンメーカー大手が圧縮機工場を子会社として持ち始め、他社製、自社製圧縮機を同一エアコン箱体に収めて製造するような時期に変貌する途中でした。ちなみに中国のエアコン型名は最初の英記号+能力表示までは各社同一で副番で各メーカ-がわかる状況で、日本のようにエアコンと圧縮機が紐付けられるような構成ではなく、エアコンメーカーが自在に圧縮機を選ぶ状況に変化していました。当然日本製、日系製の信頼性が高いのですが、大手エアコンメーカーは日本メーカーと技術提携をしていますので少なくとも圧縮機仕様は日本製、日系製と同等。そうなると、基本コスト競争になり、折あしく(中国でのエアコン生産が急速に伸びたため)銅や鉄の材料コストが世界的に毎月上昇し、契約した価格では厳しい状態に突入しました。ローカル圧縮機メーカーは、利益度外視の価格を付けて(社内供給分で数量キープしているので)販売に来ましたので往生しました。

さらには、私の想像ですが、エアコンメーカーの資材同士でどうも情報を交換しているようで、原材料や圧縮機の最安レベルを常時把握しているらしく、「どこそこ製は、こんな価格だ」と揺さぶりにかかる始末。こちらも、銅、鉄の材料費は高騰しているのはお互い様なので、ある程度市場原料価格連動に製品価格を切り替えてもらうことにしましたが、多くは厳しい状態でした。値上げを認めてもらったメーカー様には、契約更改の夜宴会を設定していただいて、昼間見たことのない方も同席して乾杯の嵐。後で気づきましたが、昼間いなかった方は宴会要員のようでアルコール免疫が高く、こちらの中国人マネージャー、担当、私も含め3人がホテルに帰る前に記憶が喪失、私の同行通訳さんが皆を誘導してくれた次第でした。

それから、中国エアコンメーカーのTopや上級幹部を日本に招待する場面が多く、ツアコンもどきで国慶節や工業会主催のHVAC&R JAPAN開催時期に同行させてもらいました。当然、中国赴任先会社の日本語堪能な営業マネージャーや総経理(現地会社社長)の通訳さんも同行してもらい、観光地や東京を案内です。地元の富士山観光は慣れていますが、とはいえ、静岡側では曇りで富士山が見えず、富士五湖(山梨側)から見えるかどうか心配しながらお連れしたこともありました。私は、当時まで東京勤務もなかったし、学校も九州なので東京案内せよと言われても・・・の状況で、今のようにスマホが普及する前のガラケーで探りながらご案内。日本側の、営業同僚やグループ内のツアー関連事業会社の方から支援いただきなんとかプログラムしていったわけです。

そんななか、あるメーカーさんの技術総監や研究リーダーと同行した時もそのころDCモータ圧縮機が日本で主流になっており、彼らのその関係の日本の技術参考書の購買に手を貸していました。日本語の技術書ですが、中国に帰って相手の会社の通訳さんなどが訳していたようです。おかげでオアゾの丸善から日本橋の丸善まで在庫あるかを尋ねながら探していました(実のところ、日本橋丸善の正確な場所はその時知った次第ですが)。熱心だなと思う反面、自分が入社した40年以上前、自分たちも海外文献、資料を見ながら開発・設計していたことを思い出していました。

営業はなかなかうまくいきませんでしたが、怒涛のような3年間でした。

生活面の続きは、No.671号へ。
                                     

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