あせらず あわてず あきらめず
「私の海外駐在記~中国・広州市~ 後編」 国際部 大井手正彦

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No.671 2020年8月

前回に引き続き、当工業会 国際部 大井手参事の中国駐在記(後編)をお届けします。2号にわたり掲載いたします。前編はこちらから


過去記事はこちらから

インドネシア駐在記(パナソニック 菅沼様)
ブラジル駐在記 (日立JC 佐々木様)
台湾駐在記(荏原冷熱 勇様)
中国マレーシア駐在記(日冷工 長野)
ロンドン駐在記(日冷工 笠原)
ノルウェー駐在記(日冷工 坪田)




4.お金
ぐっと生活に密着したお金の話から。
(1)通貨
ご承知のように、中華人民共和国の通貨単位は「元(yuan=イェン)」です。当時、ほぼ1元=15円前後ではなかったでしょうか。実は、日本の「銭」のように細かい通貨単位「角」(=0.1元)もあります。市場などで時に「角」の紙幣(一度天津ではアルミ通貨に遭遇)でおつりをくれます。写真のように、少数民族の図柄です。一方「元」の紙幣の表はすべて毛沢東の肖像で色が異なり、最高は100元紙幣です。ちなみに、紙幣には「元」の文字はありません。「圆(=円の旧漢字の簡体字)、発音は元と全く同じ」の表記で思わず何円と言ってしまいそうです。




写真1:中国のお金




日本のように1万円相当の紙幣がありませんので、赴任当初個人PCの液晶ディスプレイ購入の際2500元でしたので財布が膨れてしましました。そのうち、有名な「銀聯」(右下マーク)機能付きクレジットカードを入手したので、「銀聯」のデビット機能や、クレジット機能での支払いに慣れ現金はあまり持ち歩かないようになりました。

しかし、それも10年以上はるか昔の状態ですね。現在の中華人民共和国のe-Payの浸透はすさまじく、顔認証でスマホすら持たなく、もはや現金を持ち歩いていないのではないかと思います。


(2)現地給与と為替レート
何故為替レートの話をするかと驚かれているかもしれません。業務上は、中国国内の販売でしたので全く関係は無かったのですが、当時在籍していた会社のアジア地区海外給与はUSドル建てでした。給与の大半は、日本に居る家族のもとに日本円で送られますが、残りは単身赴任の私にUSドルで入ります。中華人民共和国に赴任なのにUSドルでしたのでこれには結構困りました。というのは、赴任当時の2006-2009年は中国のGDPがどんどん伸びていく時で、人民政府がどう操作しても、為替は元高ドル安に推移。その結果、毎月毎月私の元交換給与が減っていきました。当時の為替レートは、2006年8月に7.954元=1USドルが、2009年3月には6.838元=1USドルとなり、ほぼ3年間で実に16%も元高へ一直線に推移。毎年1回赴任給与の為替レート見直しがありますが、月々の元給与が減っていくことはあまり楽しくないことでした。


(3)貨幣価値
当時の、人民元-日本円の為替レートは1元=15円程度で、現在もほぼ同じかと思います。いわゆる、海外での貨幣価値の尺度にマクドナルドが良く比較対象にされますが、セットで30元くらいでほぼ為替レートそのままで日本でのセット価格になるかと思います。しかしながら、物価は一概には安かったです。袋入りのラーメンなど4個入りで10元です。当時、大卒新人給与が2000元くらいなので(ちなみに、2020年では大卒新人給与倍増)、日本の大卒新人と比較すると1元=100円相当になります。また、市内のマンションなども当時内装抜きで、1平方メートル当たり1万元が相場でしたので、ひっくるめると物価が安いこともあって、個人的な感覚としては、食料品以外は1元=30-50円くらいでした。



5.日常移動手段
2006年赴任当時は、広州には地下鉄が5路線くらいでしたが、今では20路線くらいまで拡張しているようです。当時は、地下鉄は市内の主要なところのみ通じていたので、公共バスや時にはタクシーを利用していました。





写真2:ワンマンバス



公共バスは、ワンマン運行で乗車時に現金支払いが赴任当初のころです。2006年だけでしたが、冷房車と非冷房車がありました。非冷房車は1元、冷房車は2元でしたがどちらのバスが来るかは運次第。でも2007年には全て冷房車になっていました。現金もって1元、2元札なら良いのですが、5元、10元では両替、おつり無いので原則バスには乗れない(おつり要らなきゃ乗れますが)ということで 少額紙幣を持ち歩くのが結構煩雑でした。


地下鉄は、駅の自動販売機でプラスチック製のトークン(2元)を購入、降車駅でトークンが自動改札に吸い込まれます。


そのうち、中国人の同僚から「Suica」のようなプリペイドカード「羊城通」を教えてもらい非接触のNFCカードで、バスでも、地下鉄でもさらにコンビニでも使えるので便利でした。コンビニで現金チャージもできましたし、銀行にあるチャージ機で口座からもチャージでき、ようやく小銭を持ち歩く手間が省けるようになりました。現在の、e-Payのはしりですね。




写真3:交通カード「羊城通」







6.食文化
広州は、言わずと知れた食の都です。広州市の別名が「五羊城(城=City)」といい、五匹の羊が穀物を口にくわえてやってきたという言い伝えによっています。上にあげた、交通カードの名称が「羊城通」になっている所以です。




写真4:五匹の羊の石像



広州の食文化を表すことわざに、「飛行機以外飛んでいるもの、机以外の四つ足は全て食す」があり、ほとんどのものは食卓に乗ってきますが、それほど「ゲテモノ」食いでありません。「田鶏」という料理もありますが、小ぶりのカエルの足を炒めたもので説明されなければ鶏肉です。「蛙」なので「田んぼの鶏」というわけです。個人的には結構好きでした。

一方、取引先のお客様が初対面の時、歓迎の意味で、「蛇(身ぶつ切り)のスープ」や、「すっぽんの姿煮」なども供されますので、これはこれで戴くしかない場合もありました。スープといえば、広州は広東料理なので薄味で特にスープ(湯=Tang)は、種類が豊富でした。スーパーなどでも、頭を切りおとした鶏(黒色)と野菜、薬膳がセットとなっている手造りスープセットがあり圧力鍋で自炊していました。

また、薄味で思い出しましたが、上海にある販売代理店社長と懇意にしていて(彼は日本の大学に留学)、ご実家のご両親のお宅で夕食をいただいた時も、薄味の上品な家庭料理(=家常菜というそうです。東京にもこんな表記をしたお店あります)でした。

また、広州(や香港)で有名な「飲茶(ヤムチャ)」は朝から夕方までやっていますが、最初のころはメニューの内容がわからないのと、一人で行くのは面白くないので、会社の通訳さんの慰労で昼間に市内中心部に来ていただいてご馳走しながら、こちらはメニューと内容をメモしていましたがどこかにいっちゃいました。実際、のんびりとお茶飲みながら食べています。

さて、お客様のところでは、各地の名産を供してくれて、例えば青島では「なまこ」と「青島ビール」を戴きました。そういえば、青島ビール園の博物展示場に、日本の勤務会社が当時のビール会社に納めた大正年代の鋳物製ケーシングの汎用電動機がきれいに保存されていたのには感激しました。


このように、上海と広州は基本薄味と思うのですが、前編にも書きましたが、揚子江沿いの中国かまど都市(南京、武漢、重慶)以南の内陸部省都市では結構辛い味を好みます。四川(重慶市もある)の麻辣火鍋や、河魚(白身)の上に青唐辛子、赤唐辛子がまんべんなく敷いてある煮物など、ビールくらいでは舌を冷ませないような激辛のご馳走を、取引先のお客様から歓迎宴で供されて、これも最初は慣れず往生しました。 


また、販売先のお客様で、この地域出身の幹部の方を日本に招待した時は、「辣醤(ラージャン=激辛です)」持参で出てくる料理に必ずつけるので、日本のコックさんに謝り通しでした。




写真5:広州にある有名火鍋店




7.会社の部レクリエーション、行事など
赴任先が、設立して間もない会社だからなのか、会社全体のレク活動や部毎の活動は盛んでした。部で2,3か月おきにレクリエーションや宴会をやっていました。マネージャーが多めに費用出し、雰囲気としては若手の慰労会のようでした。ただ、中国らしいのが、誰かの誕生会や年末宴会などでは、家族持ちは家族帯同、幼児まで参加して一族郎党、みな参加です。家族ぐるみの付き合いも入って、婚約者を連れてくる者もいてなかなか盛大でした。日本では、私が会社に入った当初、課内旅行などあって、交代で幹事をしていました。そのうち消滅しましたが、中国でこれがまた復活したと個人的には感じました。写真は、広東省の南部海岸に部内旅行した時の女性メンバーの一部の写真です。南シナ海が背後に見えます。中国は広いので、参加メンバーから、「川で泳いだことはあるが、海は初めて」等と言って、喜こんでいるメンバーもいたくらいです。他には、サッカー課対抗試合などあり、私も50半ばで40歳以下のメンバーと走り回りへとへとでした。




写真6:部内旅行にて



若いメンバーが多いので、結婚披露宴には数多く招かれました。逆玉の輿の男子の披露宴や、工場のある開発区内のレストランを借り切っての、部全体で手分け準備・運営した披露宴で、ご両親や会社の関係メンバーも参加してお祝いをしました。もちろん、お祝い金は包みましたが、かならず幾分かのお返しがあるのが驚きでした。おわかりのように披露宴の入場の様子がわかる写真ですが、これは部内のメンバー同士で結婚(部内結婚ですね)の披露宴です。結婚式の形式は判りません。多分、役所に結婚届を出すだけとは思いますが、中国ではパスポートみたいな結婚(婚姻)証明書が役所から発行されます。一般に、女性の姓は変わらず、子供が男性の姓を受け継ぐのがならわしですが、この時は両人とも「劉」さんでしたので家族全員が「劉」姓となりました。





写真7:結婚披露宴




披露宴の際、おそらく広州の風習と思うのですが、日本では新郎、新婦がお祝いに来てくれた方のテーブルのキャンドルを点灯に回りますが、当地では、「お茶を注ぐ」または「煙草に火を付ける」ことがならわしのようです。この時、小さなポチ袋に「1元」を入れて新婦にお返しするのも、ならわしのようで、一番最初に披露宴に呼ばれたとき、お祝い金は包んで持っていきましたが、このお返し(ポチ袋必要)は知らなかったので、ちょっとばつが悪い思いをしました。


8.迎春風景
中国での正月は旧正月で「春節」と呼んで民族大移動、この頃は日本を含め海外旅行が盛んですが、赴任当時は国内の都市部への出稼ぎ者が故郷でお正月というスタイル。もともと、広州に住んでいる人がどんなお正月の迎え方をするのかと思って、春節始まるぎりぎりまで(航空券が値上がりする直前まで)広州に居て、正月用品の市場で撮った写真を披露します。


まずは、玄関先に飾る金柑(多分)の飾り。日本の門松のようなものですがいわれが中国風。中国語で金柑は「金桔」。この発音が、「JinJie」で「金吉」の発音と同じなので、金運良しを年頭から願います(広州あたりが盛んなので地方は不明です)。これに 福の金文字が付いた赤い札を下げてます。(お祝い事は、赤の地に金文字が定番)



写真8:中国のお正月飾り




もう一つは、これは広州だけと会社同僚が言ってましたが、千成ひょうたんみたいなものがいっぱいついた枝。黄色の面白い実が枝についていますが、実はこの実は枝に針金で結わえているもので架空の代物ですが、これも金運上がるとか。正月から金運かと思いますが、まあ、賀詞が「恭喜発財、万事如意」={お金持ちになりますように、万事思いのままにかないますように}のお国柄なので中国らしいかなと思います。


また、古くから有名な商店街(北京路)の近く仏教のお寺の入り口には写真に示すように、金色のお坊さん(?)像が待ち構えています。中国風の長くて直径5mmくらいの線香を両手に挟んで、この後ろにあるご本尊(像はなかった)に向かってお辞儀を繰り返しているさまは、これまた「発財」を唱えているかのようでした。文化大革命で寺院は消滅したのではと、誤った記憶の私としては中華人民共和国に寺院が残っていたのは驚きでした。(実際には、仏像の多くが破壊されたそうです。寺院そのものはカンフーの少林寺などが存続しているので、全く私の錯誤ですが)




写真9:中国の寺院




9.広州風景
観光というわけではないですが、広州の自分が感じた見どころを紹介したいと思います。前編にも書きましたが、業務では各地に行きましたが、観光する時間は当然なく広州しか知らない状態でした。それでも、古来から南方中国の拠点として栄えてきた街ですので史蹟が結構ありました。


(1) 珠江(Pearl Liver:英語表記)
広州の中心を横切って、香港へと連なる大きな川が「珠江」です。南シナ海の入り口である香港とマカオの間へ流れ込んでいるこの珠江末端から上流200kmになりますが、河口が湾のように大きい三角江なので広州市南部デルタはすでに河口に面しています。南に下った東莞市にはアヘン戦争時に英国と戦って有名な虎門砲台が遺跡として残っています。

従い、広州市を流れる珠江もほぼ最下流に近く、市内の中心部近くでも川幅は200mもあります。この流域を観光船でライトアップされた両岸や、橋の下をとおる2時間くらいのナイトクルーズが「珠江夜遊」です。




写真10:珠江夜遊




写真11:珠江をナイトクルーズ





(2)陳家祠
清代に、陳氏一族が立てた住居ということですが、一見の価値はあるかと思います。出張者が来て、時間があると市内中心部にあるのでホテルからも移動しやすいし、地下鉄駅の近くなのでよく連れて行きました。外観は、豪勢な作りで、住居内部は清楚な感じの落ち着いた建物でした。建築史や工芸品に興味のある人にはよろしいかと思います。


写真12:陳家祠



(3)沙面島
もともと、清代で唯一の海外貿易港として広州の存在があったのですが、アヘン戦争後、イギリスにより開港要求されて、英・仏両国の租界がこの珠江に浮かぶ洲にできたのが始まりとのこと。日本では、長崎の出島のような大きさも商業拠点としての性格も似通っています。この、租界時のコロニアル風建築がかなり残っており、一部はホテルや商店となっていますが、出入り禁止の建物も多く、整備が不十分ではありました。しかし、写真に見るようにこぎれいな通りや街路樹があり観光地になっています。ここも、地下鉄の駅そばで、租界時の関門である橋を渡ってこの沙面島に渡れます。




写真13:沙面島の街並み



(4)中山紀念堂
清代から、続く現代中国への辛亥革命への指導者であった孫文(号:中山)を記念する建物、銅像がこの公園にあります。広州交易会のある地区に隣接しており、国民政府の総統府が置かれた縁の場所とのこと。昔は広州市の中心がこちらではと思わせるところでもあります。秦に始まり(殷、夏からという説もある)、清に終わった中国の長い皇帝政治に終止符を打った辛亥革命指導者の孫文の故郷が広州市のお隣の中山市です。私は、孫文は中華民国、国民党の創始者でもあったので、中華人民共和国で孫文がこのように敬われるとは知らず驚いた次第です。国共合作の指導者でもあったので、両者(党)から敬われるわけです。そのせいか、中国の多くの都市の主要道路に「中山路」の名前が付けられています。(広州にはなかったですが。)



写真14:孫文の銅像と中山紀念堂



銅像は孫文で、その後ろが「中山紀念堂」。写真にあるように、孫文の唱えた「三民主義」とともにあるスローガンの「天下為公(てんかはおおやけのために)」の自署扁額が正面に掲示されています。


この紀念堂のある公園のもう一つの見どころは、右の写真のタワーの下の赤い木の花です。広州の春先3月に高い木の枝に咲く名前は「木綿花(きわたの花)」。大きな花で、広州市のシンボルの市花です。



写真15:木綿花(きわたの花)




また、広州市の有名なホテルのシンボルでもありますし、広州市に拠点のある中国3大国営航空会社の一つの「中国南方航空」の尾翼のシンボルマークにもなっています。(残りの2つの国営航空は、中国国際航空(北京)、中国東方航空(上海)。)




写真16:中国南方航空




生活編は、自分の撮りためた写真のアルバムみたいになってしまいました。お付き合いありがとうございました。


最後に、中国では儒教の教えなのか敬老精神が旺盛で、よく公共バスや地下鉄に乗った時に青少年から座席を譲られる場面に多く遭遇しました。こちらは次の駅くらいで降りるので、「大丈夫だから、どうぞ座っていてください」と言うと、不思議そうな顔をしていたのが印象的でした。
                                      

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以上